本名:アルフレッド・ジョセフ・ヒッチコック
出身国:イギリス
出身地:ロンドン レイトンストーン
1899年
8月13日、ロンドン郊外のレイトンストーン・ハイロード517番地で、八百屋を営むウィリアム・ヒッチコックと妻エマの間に3人目の子供としてアルフレッド・ジョセフ・ヒッチコックが誕生する。
1907年
ヒッチコック一家、ポプラ白治区に引越す。魚屋も始める。
1910年
ロンドン、スタンフォード・ヒルにある聖イグナチゥス・カレッジに入学する。
1911年
1Bのクラスで成績優秀のため優等賞受賞。
1913年
聖イグナチゥス・カレッジを卒業する。ロンドン大学で開かれている、航海術についてのさまざまな夜間講座に通う。
1914年
12月8日、父ウィリアム(52歳)死亡。この頃から、映画に興味を持ち、映画館に通い始める。
1915年
ヘンリー電信ケーブル社に就職。就職後も美術史、経済学などの夜間講座に通い続ける。
1920年
イズリントン撮影所に字幕書きとしてパートで勤め始める。しばらく、ヘンリー電信ケーブル社と掛け持ちを続けるが、やがて同社を退職。イズリントン撮影所にフルタイムで雇われる。
1921年
撮影所で編集者として働く、アルマ・ルーシー・レヴィルと出会う。
1922年
『いつも奥さんに静しなさい』の助監督をする。
1923年
『女対女』の助監督兼脚本、美術担当となる。この仕事にアルマは編集係として参加。
1925年
6月、『快楽の園』で監督としてデビューする。秋、『山鷲』を撮影。
1926年
5月〜6月、『下宿人』。この映画で初めて、ヒッチコック白身が画面に登場する。
12月2日、アルマ・レヴィルと結婚。
1927年
3月、『下り坂』。6月ごろ、『ふしだらな女』。8月、『リング』。10月、『農夫の妻』。トーキー映画開始。
1928年
2月ごろ、『シャンパーニュ』。9月ごろ、『マンクスマン』。
7月7日、ひとり娘のバトリシア誕生。アカデミー賞が設定される。
1929年
2月ごろ、『恐喝』、これはヒッチコックにとって初めてのトーキー映画となる。年末から翌年初めにかけて『ジュノーと孔雀』。
1930年
『殺人!』、同時に、別のキャストによる同映画のドイツ版も撮影する。年末から翌年初めにかけて、『スキン・ゲーム』。
1931年
『第十七番』。
1932年
『リッチ・アンド・ストレンジ』。
1933年
『ウィーンからのワルツ』。
1934年
5月〜8月、『暗殺者の家』。
1935年
1月〜3月、『三十九夜』。秋、『間謀最後の日』。
1936年
5月ごろ、『サボタージュ』。
1937年
『第三逃亡者』。
10月〜11月ごろ、『バルカン超特急』。
8月12日、ヒッチコック夫妻、アメリカ旅行。
1938年
9月〜10月、『巌窟の野獣』。
1939年
3月、一家でハリウッドに渡る。ウィルシャー・ブルーヴァードに新居を定める。
9月、『レベッカ』。
9月3日、ドイツがイギリスに宣戦布告。
10月、セント・クラウド・ロードの家に引越す。
1940年
3月〜5月、『海外特派員』。
9月〜11月、『スミス夫妻』。
7月10日、ロンドン大空襲。
1941年
2月〜7月、『断崖』。
11月〜翌年初めにかけて、『逃走迷路』。
『レベッカ』がアカデミー最優秀作品賞受賞。最優秀監督賞ノミネート。
1942年
6月ごろ〜9月ごろ、『疑惑の影』。
9月26日、母エマ(79歳)死亡。
1943年
1月4日、兄、ウィリアム(50歳)死亡。
7月〜11月、『救命艇』。
1944年
7月〜10月、『白い恐怖』。
10月、初めてロンドンに帰郷する。
1945年
10月〜翌年の2月、『汚名』。
1946年
12月〜翌年5月、『バラダイン夫入の恋』。
1947年
トランスアトランティック・ピクチャーズ社設立。
1948年
1月〜2月、『ロープ』。
夏ごろ〜11月、『山羊座のもとに』。
イングリッド・バーグマン、映画監督のロベルト・ロッセリー二と駈け落ち。ハリウッド映画界から非難を浴びる。
1949年
6月〜9月、『舞台恐怖症』。
1952年
1月、娘バトリシアが結婚する。
8月〜10月、『私は告白する』。
3-D映画(立体映画)が始まる。
1953年
7月〜9月、『ダイヤルMを廻せ!』、これはヒッチコック唯一の31D映画となる。
10月〜年末、『裏窓』。
1954年
6月ごろ〜8月、『泥棒成金』。
10月ごろ〜11月ごろ、『ハリーの災難』。
1955年
4月20日、アメリカ合衆国に帰化する。
4月〜7月、『知りすぎていた男』。
TVシリーズ、『ヒッチコック劇場』開始。
1956年
3月〜6月ごろ、『間違えられた男』。
4月15日、ヴェラ・マイルズが結婚。
4月18日、グレース・ケリーが結婚。モナコ王妃となる。
1957年
1月、ヘルニアのために入院。
3月、胆のうと胆石除去のための大手術。
9月〜12月、『めまい』。
1958年
8月〜翌年初め、『北北西に進路を取れ』。
4月中旬、ゴールデン・グローブ賞(年間最優秀番組賞)受賞。
1959年
4月18日、アルマが子宮頸部ガンで緊急入院。
11月〜翌年1月、『サイコ』。
1962年
3月〜夏、『鳥』。
1963年
9月〜翌年2月、『マーニー』。
1965年
11月〜翌年2月、『引き裂かれたカーテン』。
3月7日、第12回マイルストーン賞授与。
1966年
夏、渡欧、ケンブリッジで講演。
8月13日より、トリュフォーによるロング・インタヴュー。
1968年
10月〜翌年夏ごろ、『トパーズ』。
4月、アーヴィング・G・タルバーグ賞受賞。
1969年
9月5日、フランス芸術文化勲章を授与。
1971年
6月、フランス、レジョンドヌール勲章を受ける。
夏ごろ〜10月、『フレンジー』。
アルマが倒れ、半身不随になる。
1974年
体調をくずし、心臓にペースメーカーを埋め込む。
3月〜7月ごろ、『ファミリー・プロット』。
1976年
6月、フランス、芸術文化勲章最高位「コマンドゥール」を受ける。
1979年
3月、アメリカン・フィルム・インスティテュート(AFI)功労賞受賞。
12月、イギリスの王室より、サーの称号を受ける。
1980年
4月29日、ロサンジェルスに隣接したベル・エア市の自宅で、老衰のため80歳の生涯を終える。